心が真っ白な僕はどの色にも染まる。
決して心が雪のように真っ白で綺麗と意味ではない。
絵の描いていないキャンバスと言ったところか。
僕の心の中はいわゆる無というやつであり、凪である。
心に波風を立てることが嫌いで、いつも心が平静であることが僕の幸せなのである。
僕が人と深く関わらなかった理由
人と深く関わる事は大きなエネルギーが必要であると思っている。
その関係が深くなれば深くなるほど思い入れも深くなり、その人が困っていれば助けたいと思い、その人が悲しめば僕も悲しい。
当然その人が喜べば僕も喜ぶし、その人が起これば僕も釣られて怒るだろう。
そのことが僕の感情を刺激して僕はとても疲れてしまうと思う。
それほど僕の心は強くないという事だろう。
何か想定外の事が起これば僕の心はそのことに対応できず、パニックを起こすかもしれない。
はたまた感情が爆発し、想定外の行動をとってしまうかもしれない。
何か確固たる信念を持って生きているわけでは無い僕はとにかく人の影響を受けやすい。
あるいは人の感情が入ってきやすいのかもしれない。
信念ではないが何かあるとするならばただ日常をみんなでニコニコと笑って暮らしていたいと思っている。
怒っている人、悲しがっている人、気分を悪くしている人を見ると気になって仕方がない。
なんとか怒りを鎮めて欲しい。なんとか悲しみを取り去りたい。何とか気分良くして欲しい。
これを偽善と呼ぶ人がいるのかもしれない。
偽善ではない。自己満足である。
自分の心が平穏である為に僕は周りに気を使い生きているのかもしれない。
誰かが言った何気ない一言が気になってしまい、深読みをしてしまう。
人の心を読むのは得意な方だと自分では思うし、周囲からも比較的そういう評価は受けている。
ただし当然深読みしすぎて失敗することもあるし、それが出来る事によってそんなに得はしない。
こんな事を果てしなく考えるのだから心が疲弊していくのだろう。
そして僕はこれらを考えずにすむ方法を考え付く。
そう。
人とあまり関わらないようにしよう。
真っすぐな人が苦手だった
とにかく眩しい。
なにかにつけて真っすぐキラキラして僕とは相容れないのだと思う。
いや本当はそんな風に行きたいという憧れと畏敬の念すら抱いているのかもしれない。
そんなド直球を投げられると勝負しなくては行けなくなってしまう。
変化球しか打たない僕には直球勝負という男らしい選択肢はないというのに。
どうしてそんなにど真ん中しか投げてこないのか。
平たく言えば「そんなに僕の心の中にズカズカと入ってこないでよ。」
という事。
ずっと心に蓋をして僕を守って来たのに、そんなにも簡単に蓋を開けてしまう人がいる。
僕はもはや防御力0の状態。
そんなことをして何が楽しいの?
いや楽しいのではないのだろう。それがその人なのだから。
そんな人に出会った。
僕は真っすぐな人が苦手だ。
本当の自分
本当の自分ってなんだろう。
本当の自分なんてものは果たして存在をするものだろうか。
考え方が少し変われば過去の本当の自分なんてもう存在しないに等しいような気がする。
あるいは月日を重ねるごとにいろんな事に動じなくなっただけなのか。
考える事を放棄して心が楽になったのではないのか。
誰かが僕の心の蓋を取って入り込んできた時から何か僕は自分が自分で無くなったかのような気がしている。
ただ生きて行かなければいけない。
今の自分を認めて生きていくしかない。
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